征韓論とは!西郷隆盛の考えはどうだった?わかりやすくご紹介します。

こんにちは、ぽむです。

征韓論ってちょっと判りにくくないでしょうか?

征韓論が判れば、もっとその後の動きがダイナミックに見えてきそうなんだけど。

いろいろな人達が動きまくっていて、意見もさまざま、なかなか概要がわかりにくたったりしますよね。

西郷隆盛は何を考えていたのか。

一般に言われているのと実際はちょっとちがいます。

時代背景からわかりやすくご紹介したいと思います。

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当時の世界と日本の関係。

まず、征韓論が起こる背景を日本国内でなく、世界の流れから見ていきたいとおもいます。

世界中で大国が領土拡大を争う時代

1854年にペリーが来航、日本は開国へと向かいますが、

そのとき、ロシアを含めた当時の他の強国はクリミア戦争の真っ最中です。ロシアとオスマン帝国の戦争ですが、実際はロシア対英国・フランスの戦いでした。

言い換えると、ロシアがクリミア戦争の最中だったので、アメリカが日本を開国できた。ともいえます。

日本に一番近い大国はロシアですが、ロシアは英・仏との戦争で忙しかった。

その隙にアメリカがやってきた。ということでしょうか。。

戦争が終われば、ロシアは日本を侵略しようと攻めてくるのは明らかでした。

世界中が、大国の侵略戦争の中にあったのです。

それがはっきりしたのが

1861年に起きたロシア軍隊対馬占領事件

どんな事件かというと

ロシアの軍艦が修理を理由に対馬に入港し。その後、なんと「永住施設」を建設し始めたのです。

日本にロシアの永住施設ができると言うことは侵略が始まると言うことですね。

その期間もなんと6ヶ月です。

どれだけ日本に衝撃を与えたかは容易に想像できますよね。

クリミア戦争も終わり、1861年清と北京条約を結んだロシアは日本にターゲットを当て動き始めたのです。

その頃、アメリカは南北戦争が始まり、混乱のさなかです。

幕府は対応に苦しみながらも、イギリスにロシアとの交渉を頼みます。

そして、イギリスが2席の軍艦を派遣し、ロシアを威圧、退去を迫ったため、ロシアの軍艦は退去しました。

このとき日本は、自力でロシアの軍隊を退去できなかったのです。

日本が大丈夫だっただけというのは今回だけ、

それは、誰にも判ったことだったと思われます。

世界は帝国主義時代、その中で日本は激動期。

いつ、侵略が始まってもおかしくない時代でした

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当時の朝鮮

先ほどの地図を見ると判りやすいと思うのですが。

朝鮮、対馬、九州の並びはとてもよい並びですよね。

補給もしやすい、

朝鮮がロシアの植民地になったら、日本はかなり危険になります。

実際、蒙古襲来はこのルートでした。

朝鮮に戻りますね。

当時の朝鮮はというと、鎖国をしていました。

鎖国をしていても、実質は清の支配下にありました。

属国ということです。

そして王朝は小中華思想を持っていました。

儒教思想です

大中華の次に自国が世界の中心だと言う思想で、それを人民は教えられて育ちました。

各国を階層差別する思想です。

ちょっと判りにくいので、実際にご紹介しますね

これは1699年に出版された童蒙先習(どうもうせんしゅう)当時の儒教者の教科書に書いてある文章です。

ああ、我が国は海の辺隅にあり、国土は狭小ではあるが、礼教・音楽・法律・制度、衣冠(身分秩序)・文物(文化の産物)、ことごとく中国の制度にしたがい、人倫は上層ではあかるく、教化は下のものに行われた。風俗の美は中華をひとしくなぞっている。華人(中国人)はこれを称して小中華という。」

中華の教えが世界の中心で、それをどれだけ知っているかがすべての基準だったのです。

その教えを守るものは徳が高く、守らず、知りもしないものは卑しい。

この教えは国外だけではなく、国内にも向けられていました。

この思想に基づいて国が治められていたのです。

同じ朝鮮人でも階層差別が著しく、儒教の教えを受けたもの(支配階級)に下のものが教えを請うという差別制度が作られていました。

その中で、日本は朝鮮の下の階層の国でした。

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征韓論

ちょっと長くなりました^^;

いきさつをご紹介しますね。

1868年明治新政府が成立した日本は李氏朝鮮政府に国交と通商求める国書をもった使者を送ります。

ところが鎖国中の朝鮮政府はこれを拒否

理由は

  • 日本はアメリカ(小中華思想で、一番卑しい国)の求めで開国した
  • 中国王朝の皇帝にのみ許される称号「皇」が使われていた
  • 中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っていた

等です。

小中華思想からすると、考えられない事ずくしだったということは容易に想像できます。

ご紹介したとおり、国家といっても、清の支配下にあります。

小中華思想が支配していたと言うことは、思想的にも清に従っているということです。

その自分達に卑しい国が信じられない礼を欠いた書簡を送ってきたのです。

そんな李氏朝鮮の苛立ちにもかかわらず、日本は何回も使者を送ります。それを李氏朝鮮はことごとく拒否。

また、日本は宋氏(以前交流があったときに使っていた使者)も排除し佐田白茅を調査目的に朝鮮に派遣。

日本としては、なんとしても朝鮮と関係を築き、ロシアの南下を止めたかったと言うことなのかもしれません。

ただ、小中華思想が支配する朝鮮は日本に対して侮辱的な態度を取ります。

日本から見ると侮辱的なのですが、朝鮮から見ると、全く正しかったのでしょう。

溝はどんどん広がっていきました。

そして、宋氏の代わりに派遣された佐田が、この朝鮮の態度に激怒します。

そして、佐田は征韓を主張する報告書を提出します。

征韓論を唱えたのは木戸孝允ですが、それを日本中に広めたのは佐田でした。

その内容は武力を持って朝鮮を開国させようというもので、

佐田は報告書の中で「朝鮮は30大隊あればこと足りる」と書いていて、その心には朝鮮に対する深い怒りを持っていたと言われています。

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西郷の考え

征韓論が広がった背景はこのようなものでした。

では

西郷は征韓論をどのように考えていたのでしょうか?

一番初めにご紹介したとおり、日本にとって最大の危惧はロシアの侵略です。

ロシアが朝鮮を侵略して領土にすれば、日本へ攻め込んでくる朝鮮までの陸路を作ることが出来ます。

朝鮮まで陸路を使い朝鮮から対馬に攻めてくると言うルートです。

朝鮮が強い国だったならば、そんなことは考えられません。

でも、李氏朝鮮は実際は清の属国で弱い国だったのです。

鎖国をしている以上、ロシアが開国しないことを理由に朝鮮に責めてくることも大いにありえます。

朝鮮が落ちれば次は確実に日本です。

西郷は一人、使者として李氏朝鮮に行くことを望みます。

朝鮮の出兵にただ一人反対したのも西郷です。

西郷が望んだのは朝鮮の開国であり、一つの国として世界に存在していくことでした。

西郷の視線は世界にありました。

征韓論に真っ向から対立する遺韓論を唱えます。

繰り返される閣議においても、西郷は過激な発言は一切しませんでした。

”維新以来、かの国はわが国にしばしば無礼を働き、互いの通商もうまくいかず、釜山の公館の日本人も圧迫を受けています。しかし、軍隊を派遣するのはよくありません。両国が戦うことにでもなれば、最初の趣旨(友好親善)に相反することになります。 ここは公然と一国を代表する使節を派遣するのが至当と考えます。かの国が戦争の構えで国交を拒む心底が明白にならない限り、わが国はできる限りの努力をしなければ、人事を尽くさざる悔いが残るでしょう。 暴挙の恐れがあるといって、戦いの準備をして使節を派遣するのは、礼儀に反します。ぜひ交誼を厚くするという当初の趣旨を貫徹したいものです。その上で万一、かの国が暴挙に及ぶのならば、そこではじめてかの国の非道不正を世界に訴え、罪を問うべきでしょう”

このような発言を繰り返し、賛同を得ようと奮闘します。

日本が征韓論に乗って、朝鮮を攻めれば、そこに待っているのは朝鮮ではなく、ロシアや、清の大国です。

感情的な理屈で軍事行動を起こせば、それをどう取られるかわからず、大国に日本を侵略する大義名分を与えかねないのです。

大久保たちがまだ帰国していないなか、

征韓論に煽られていく朝鮮出兵へ動き出そうとする流れの中で

それ止め、朝鮮の国としての重要性をひたすら説いていたのです。

日本にとって最善の策を西郷は探していたのですね。

まとめ

いかがでしたでしょうか?

征韓論とはなにか、西郷はなにを考えていたのかをご紹介してみました。

まとめると

  • 日本はロシアの侵略を恐れていた。自国を守るために朝鮮は地理的に重要な土地だった
  • 朝鮮は実質清の支配下で小中華思想が支配していたため、日本の国書を拒否し続けた
  • 征韓論は朝鮮の対応に腹を立てた日本政府の確執から発生した
  • 西郷がといたのは征韓論ではなく遺韓論

です。

単純な感想ですが、

やっぱり西郷隆盛は凄いなーと思ってしまいます^^

ここまでよんでいただきありがとうございました。

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コメント

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