西郷隆盛の弟の名前は?何故兄を追い詰めていったのか?

こんにちは、ぽむです。

西郷隆盛に弟がいたのはご存知ですか?

気になりますよね。名前とか。性格とか。

最後には兄を追い詰める立場になっていった西郷隆盛の弟についてご紹介します。

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弟の名前は?どんな人?

名前!本名じゃない!??

弟の名前は西郷従道(さいごうつぐみち)です。

ちなみに本名は「隆興」(りゅうこう)です。

芸名ではありません。この時代に芸名的なものはありませんでした。

では何故???

実は、

維新後に役所で登録するときに「りゅうこう」を

係員が聞き間違えて「従道」と登録してしまいました。

普通はそこで訂正しますよね。

まず、戸籍に登録する名前ですし、

どう考えても間違えたと許せるレベルを超えていますよね。

(りゅうこうとつぐみちって、聞き間違えるものでしょうかww)

そして、大事なことがあります。

それは、この時代の戸籍の意味が、関わってきます。

この時代の戸籍は意味がすごくあるのです。

この時代

明治維新と言う時代は、江戸時代までの戸籍システムからやっと抜けた時代です。

戸籍がそれまでなかった?

と、言うことではないのです。

その前の江戸時代にも戸籍がありました、

ただ、身分差別が残っていたため、現在は公開されていません。

身分が戸籍に記されていたのです。

身分が記入されて入れば、戸籍と言う性質上、それは、永遠に残ります。

差別化された身分だった場合、それを永遠に子孫が受け継ぐことになるのです。

公開されていない。と言うことから察するに。

江戸時代にはすごい身分差別があったと言うこと。

そして、それが戸籍に記入されていたと言うことですね。

察するに、インドで言うカースト制度のようなもの。。

びっくりしますよね!

自由なんてなかったんですね。

それを廃止するため、

身分差別を記入しない戸籍が初めて作られたのが明治です。

それを作ったのが西郷です。

ものすごいことだったと想像できます!!!

身分が問われなくなった!大事なのは自分の名前のみ!!

子孫が、親の身分で苦しむことがなくなったのです。

名前が自分を証明する唯一のものになったのです。

誰もが戸籍登録しに喜び勇んで行ったのが判りますよね。

未来が変わったんです。

そんなすごい流れの中・・・・・

従道は自分の名前が間違って登録されたことを全く気にしませんでした。

名前。どうでもよかったんです。

え・・

それでいいの?????と思いませんか?

信じられませんww

大ばか者です。

たとえ、戸籍を作り直す目的が差別をなくす事だったとしてもです。

名前って。。

親からもらったものですよ!

大切じゃないんですか!?

そんな風に思っていると。

・・・

「よか。よか」

と、笑って言っている従道が見えてきます。

自分なんて、どうでもよかったんですね。

どれだけ、器がでかいんでしょうね。。

ところが、

そんな大ばか者がもう一人います。

兄です。

西郷隆盛も本名は隆永です。

隆盛は西郷兄弟の父の名前です。

間違って吉井友実が登録してしまったのですが、隆盛は気にせずその名を使いました。

父の名だろうが、自分の名だろうが、なんと呼ばれようがどうでもよかった。

その、考え方が弟に受け継がれていったのですね。

。。

ちなみに、千と千尋ファンの私は

聞いたらひたすらびっくりです。

ぽむは、身分制度のない平和の中に生まれ育ったので、名前が重要と思ってました。

西郷兄弟!名前。。。どうでもいいの!?

です。

また。

そう考えたときに、身分制度が戸籍記入から外された意味が感じられます。

今の日本には身分制度のくくりは全くないですね。

これは、自然に出来たものではなかったのですね。

西郷兄弟、でかすぎです。

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人物像

では、この従道はどんな人物だったかというと。

まず、略歴が

陸軍卿、文部卿、農商務卿、内務大臣三回、海軍大臣七回、陸軍大臣(兼摂)一回、農商務大臣(兼摂)一回を歴任

なんと。

ほとんどの重役を勤めました。

もう、めちゃくちゃです。これは時代に関わらず、本当に稀有なことです。

一人の人が色んな大臣を次々にやっていたってことですから。

「昔だからそんなことがあったのね」

と思われるかもしれませんが、違います。

従道はものすごい才能と人望の厚い人物だったのです。

なぜかというと。

まず、時代背景ですね。

こんな時代です。

おまけに

明治維新、維新後は日本が揺れに揺れた時代です。

全てを新しく作り変えなければいけなかった時代です。

それなりの知識や人脈がなければ大臣になるなんて到底無理。

桁外れの何かがなければ、このような略歴をつくることはできません。

唯、この時代は人材がいない時代ではなかったのです。

反対にものすごい才能のある人材にあふれた時代でした。

と、いうことは。

桁はずれた才能と人望があったのです。だから誰もが従道を求めました。

そして、

従道は頼まれる役職を片っ端から引き受けていきます。

何でも引き受ける男。西郷従道。

ついたあだ名は

「何でもござれ大臣」です。

何でもござれって、、深いですよね・・

だって、努力無しにはありえないです。。。

ちなみにこれは文部卿になったときにつけられたあだ名です

あだ名と言うよりも今で言う「愛称」のようなもの。

従道にやらせると、何をやらせてもなぜか上手くいってしまう。

困ったときにはあいつに頼むしかない。

そんな人間だったのです。

従道は頼まれればどんどん重役につき責務を果たしていきます。

ただ、

そんな従道も

総理大臣だけは、役職を受けなかったのだそうです。

なぜでしょうね。

従道には、自分が信じる道があって、それを貫きたいと思っていたのだと思います。

それには、分相応ということがあって、

聖域というものがあったのではないかな?と思います。

従道にとっては隆盛が聖域だったのではないかな?と。

なので、総理大臣という役職は何かが違っていたのではないかと思います。

一生涯強い絆で結ばれていたのではないでしょうか?

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何故兄を追い詰めなければならなかったのか?

征韓論争が受け入れられなかった隆盛は、陸軍大将、参議と、全ての公職を辞して姿を消します。そして、西南戦争へと向かっていくのですが。。。

この征韓論争というのは、西郷隆盛自身が、単身朝鮮に乗り込み、腹を割って話し合って日本、韓国、清国が共同して西洋諸国の侵略から自分達(日本、アジア周辺)を守ろうとするものでした。

言葉上の韓国を征服しようと言うような意味ではありませんでした。

そして

これを聞いた大久保利通たちは、西郷の意志は無駄に終わり、単身渡朝すれば、必ず西郷は殺され、結果として戦争を引き起こすことになる、と読み、西郷の命、そして日本の将来を危惧しました。

日朝が戦争になったときには諸外国が干渉して来ることが判っていたのです。

そのため、意見の食い違いが起こりました。

西郷は自分の命など捨てても良いと大儀を重んじ、何かを信じたのだと思います。でも、現実主義の大久保達はそれが見えず、西郷の身と日本を案じたのです。

西郷の純粋さは相手(韓国)には、到底通じないと思ったのでしょう。

西洋で、文化の違いを充分に見てきた大久保だからこその意見だったのですが。それは西郷にしてみれば受け入れられないものだったと思います。

西郷は純粋な思いは全てを貫くと信じていたからです。

どちらの意見も本当に純粋なものでした。

結果大久保たちの意見が通り、

隆盛は潔く姿を消し鹿児島に帰るのですが、

そこには決して遺恨はなかったと思われます。

大久保たちがどれだけ西郷を大事にしていたか、西郷はちゃんと判っていたと思います。

なので隆盛は鹿児島に帰るとき、一緒に鹿児島に帰ろうとする従道に

「おはんな、東京に残れ」

と、言い残します。

自分の出来ないことは、お前がやってくれ

と言う、意味だったと言われています。

それは、とても重い意味だったと思います。

そして、

西南戦争で西郷隆盛軍を鎮圧したと明治天皇に報告したのは従道でした。

実の兄の死を朗報として報告したのです。

どれだけ重いことかは想像に尽きます。

ちなみに

江戸に残った従道は、実際には西南戦争には関わりませんでした。

戦況を聞き、報告する役目のみでした。

なぜか

もちろん、それは天皇たちが西郷兄弟を愛しんでいたからです。

従道を西南戦争に直接関わらないようにしてくれたと言うことです。

でなければ、最悪の兄弟戦というシナリオになっていたはずです。

時代が流れるときは本当にいろいろなことが起こるのだということでしょうか。

なぜ、従道は隆盛を追う立場に?「ロシアから日本を守る」が隆盛の遺志。

従道が、江戸に残り、育ての父とも言える隆盛と別れたのは、もちろん隆盛の意志でした。

征韓論争に敗れた隆盛は姿を消しましたが、それを探し出したのは弟の従道です。

隠れている隆盛に

「なしてこげんところへ・・・」

と声を掛ける従道に、隆盛は

「おいは、日本国のことを考えとった。朝鮮半島は、オロシアが日本を攻める廊下じゃ。それをおさえようと思ってな。」

と、言います。

また、

「おはんな、東京に残れ」(ついてくるなよ)と言います。

これは

「次は日露戦争である」という隆盛からの従道へのメッセージでした。

そして、これが隆盛と従道の最後の別れになりました。

その5年後西南戦争で隆盛は自決します。

そして、西郷隆盛が城山で自決したのを明治天皇に報告したのは陸軍卿代理だった従道です。

それからも従道は隆盛の意志をひたすら守り続けます。

その間およそ20年です。

20年もの先を隆盛は予想していて、

日本を守るために従道を西南戦争に関わらせず、日本政府に従道を置きました。

日本を従道に託したのです。。

隆盛亡き後従道は明るい天真爛漫な率直な、素朴な人柄で人々を導いていきます。

そのために、異例の略歴になるのです。

明るく明るく、人を大事におおらかに、隆盛の意志を守り通して生きました。

本当に驚くばかりですよね。。

また、

従道は生涯総理大臣になる事はありませんでした。

ことごとく辞退したのです。

頼まれるたびに、従道はこう言ったといわれています。

「不肖の今日あるは、ひとえに兄隆盛の庇護によるのみでございます。みずから総理大臣になるなどは思いもよらぬところであります」

誰になんと言われようとも、決してこの意見を変えず、明治天皇もその意見を聞き入れたといわれています。

隆盛と生涯一で生きたのでしょうね。

その人柄は隆盛と同じ、もしくはしのぐと言われています。

従道については、色んなエピソードをこれからもご紹介していきたいと思います。^^

まとめ

いかがでしたでしょうか?

今回は、ほとんど知られていない西郷隆盛の弟さんをご紹介しました。

まとめると

  • 弟さんの名前は従道(これみち)本名は(隆興:りゅうこう)
  • 隆盛が親代わりで育てた子
  • 才能あふれる人物で総理大臣以外の全ての重役を勤めた人
  • 隆盛の意志で官軍(政府)に残った
  • 兄の意志はロシアから日本を守ること

です。

隆盛に育てられ、意志を全て受け継いだ従道、あまりしられていませんが、その人生は隆盛がいつも一緒にいるように感じられるものでした。

これからも、どんどんご紹介していきたいと思います。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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